遠藤憲一 : ドキュメンタリーの肖像(ポートレート)
僕はスタジオで滅多に写真を撮りません。
なぜか。
いつまでも、ポートレート写真家ではなくドキュメンタリーの「写真作家」でありたいからです。
スタジオのポートレートであれば、別に僕じゃなくでもやる人は世の中には大勢います。
僕は仕事でインタビューなどのポートレートを撮影する5分や10分の付き合いで、被写体が僕の事を誰なのかも分からず、名前も覚えられないようなとても薄い関係に耐えられないのです。
ちゃんと被写体と写真家として向き合い、長い時間を共有し、理解し合った上で撮って生きたいのです。
だから、僕のポートレート写真はそういう関係のドキュメンタリーから生まれたポートレートなのです。
僕は遠藤憲一さんと10ヶ月間、時間を共有しました。
その間、僕は遠藤さんという人間を知り、遠藤さんも僕という人間を知ってくださっていると思っています。
僕の写真はそういう中から生まれているものなのです。
僕は撮影をお願いした俳優さんとは約1~2年撮影させて頂いています。
だから、一般のポートレート写真家みたいに被写体の数は多く撮れないのです。
そこにジレンマはありますが。
このドキュメンタリー写真を一番最初に始めたのが遠藤憲一さんです。
数々の遠藤さんの撮影現場に入らせてもらい写真を撮りました。
自分から望んだこととはいえ、実際始めて見るとすごく気を使い、誰一人知らない場所に入ることで毎回孤独との戦いでした。それは最後まで続きました。
遠藤憲一さんのような人を撮れて、さぞ楽しかっただろうと思われるのですが実際はとてもとても言葉では言い表せないぐらい苦しい作業だったのです。
僕の尊敬する写真家が言っていました。ドキュメンタリーというのは撮る事自体は簡単。いかに撮らない、撮ってはいけない瞬間を感じ取ることかと。
僕もとてもこの言葉には深く同感します。
被写体が撮られたくない瞬間、撮る事で撮影現場を取り巻く人達に迷惑がかかりそうな瞬間を察知する力、感覚が本当に必要なのです。
僕から言わせてもらえれば、本当に「それ」が全てだと言ってもいい。
僕は遠藤さんを撮って来て、最後の撮影は「湯けむりスナイパー」の現場でした。
そこで遠藤さんは僕に「どう?写真撮りたまった?」と言いました。
”写真が撮られるのが好きじゃない” 遠藤さんからそう言って頂けて、今までの苦労が報われたようで本当に心底嬉しかったのです。
僕の被写体になってくださった俳優さんの写真は大抵、主に「週刊現代」さんのグラビアページに取り上げていただいています。根岸さんの場合は女性誌でしたが。
下は「週刊現代」用にライティングして撮り下ろしたものです。
僕にしては珍しい写真です。いつも太陽光の下、俳優の素を追いかけていますから。